初代鳳齋の六男。12歳の頃より父鳳齋の手ほどきを受け、めきめきと腕を上げ、二十歳前からは、名人二代鳳齋の代作を務めるまでになる。志高く、十代の頃は画家を目ざしたが、竹工芸に於いて高い芸術性と格調のある制作を決意し、書、漢学、俳句、和歌など日本文化の教養を積み、人格の研鑽を基とした作品は非常に変化に富む。
作品の様態に真・行・草の三態の概念を導入し、主に自然の事物、事象と相呼応する趣のある「銘」を作品に施している。
技術的には、刺編、束編、白錆竹を用いたツブシ(のし竹、平竹)等の代表的な技法の導入、考案をした。
大正11年、平和記念東京博覧会出品「厨子花籃」の銀賞受賞を皮切りに、数々の受賞を続け、未だ近代工芸界に於いて「竹細工」として一段低く見られていた竹工芸を芸術の一分野に高めた。
昭和8年、日本を訪れていたブルーノ・タウト(建築家)が琅玕齋宅を訪れ、数年の交遊が続いた。タウトは、西の田邊竹雲齋、東の飯塚琅玕齋とたたえ、琅玕齋の作品を「モダン」と評した。又、その他の分野の工芸家(漆芸の松田権六、陶芸の板谷波山他多数)文人墨客との交遊の広さ、書、絵画、俳句などにも長じ、現在もその数々が残されている。