初代鳳齋長男。名人の誉れ高く、1902年(明治35年)鳳齋、菊次名を継ぐ。確かな技量に裏打された唐物風ながらも、独自の作風の名品を制作した。1910年(明治43年)頃、一家の上京に伴い、田端に居を構えた。
大正3年東京大正博覧会では、竹製笈他三点が銀牌を受賞。翌4年、大正天皇即位に伴う大嘗祭のための「神服入目籠」一対の製作を宮内省から依頼され、父鳳翁(64歳)、弟弥之助(琅玕齋25歳)と共に製作した。
大正14年、パリ万国装飾美術工芸博覧会で笈形器局が名誉賞を受賞、この作品には政府から制作補助金が支給されている。又、農商務省主催図案及応用作品展、商工省所管工芸展等で活躍を続けた。
当時産業的な色彩の濃い竹芸界で、二代鳳齋は籠師としての品格を重んじ、次世代の琅玕齋や他の竹工家の活躍の地盤を築いた。